
ゆかりの人物
観心寺、金剛寺、延命寺には、その時代時代に行基や空海、阿観(あかん)、浄厳(じょうごん)などの高僧が関わっています。また、楠木正成と後醍醐天皇を結び付けたといわれる文観(もんかん)などもこの地の発展に寄与しました。 加えて、観心寺が鳥羽天皇の、金剛寺が八条女院(はちじょうにょいん)の祈願所となるなど、皇室とも深いかかわりがありました。それゆえに、南北朝時代、特に後村上天皇の時代には、金剛寺の食堂や子院摩尼院(まにいん)が行宮とされ、子院観蔵院には北朝の三上皇(光厳・光明・崇光上皇)と直仁親王(なおひとしんのう)らが人質として幽閉されるなど、一時期、塀を隔てて南朝と北朝の天皇が一緒に過ごすという歴史的な場となりました。


楠木正成
楠木正成は、伝承によれば、永仁2年(1294)に千早赤阪村に生まれ、幼名は「多聞丸(たもんまる)」と言い、8歳から15歳までの間、観心寺中院(かんしんじ ちゅういん)で住職の滝覚坊(りゅうかくぼう)に師事、加賀田(かがた)(河内長野市)の大江時親(おおえときちか)の元で兵法を学んだと言われています。南北朝時代を舞台とした物語である『太平記』には、楠木正成は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に仕え、様々な戦略で戦いに勝つなど重要な人物として描かれています。 また、江戸時代以降には多くの書物が著され、楠木正成や一族の忠孝が讃えられ、忠臣としての一面が大きく取り上げられるようになりました。しかしながら、楠木正成に関する記録は、湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で亡くなるまでの約5年間しか残っていません。
【ゆかりの寺院】
観心寺
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